同窓会会報 Vol.40より


ごあいさつ--観光創造の他者論の試み

放送大学北海道学習センター
所長 山田義裕


 この4月に新田前所長からバトンを受け取りました山田です。まず自己紹介も兼ねて私の研究領域について申し上げ、その後で5月21日の同窓会総会の際に「他者と出会う」というテーマで講演した内容に若干補足させていただきます。
 私はこの3月まで、北海道大学大学院メディア・コミュニケーション研究院に所属して研究活動を行ってきました。また教育に関しては、全学教育(旧教養部)で外国語を担当する一方で、2000年から国際広報メディア・観光学院で大学院教育に携わってきました。私の研究の専門は、もともとは生成文法という理論言語学の一分野ですが、その後大学院教育を担当するようになってから、コミュニケーション研究、メディア研究と研究領域が広がり、15年ほど前からツーリズムに関する教育研究に従事するようになりました。この数年は、情報メディアと観光の関係やピース・ツーリズムに関する研究プロジェクトを立ち上げて共同研究を展開しております。
 私が観光分野の研究を始めたのは、私の所属していた大学院に観光関連の専攻が新設されたのがきっかけです。日本では2003年、小泉内閣において観光立国が宣言され、その後高等教育においても観光の教育研究をという期待が高まります。北海道大学でも、こういった機運のなかで、2005年に観光の高等研究機関と大学院を設置しようという話が持ち上がり、その企画が進められました。そして、当時国立民族博物館におられた石森秀三先生(現在、北海道博物館長)をお迎えし、2006年に観光学高等研究センター、2007年に観光創造専攻を立ち上げました。私は新専攻設置のための下働きをしていた関係で、2007年に発足した観光創造専攻で観光関連の大学院教育に携わることになったという次第です。ちなみに、北海道学習センターで新田先生の前に所長を務められていた筑和正格先生も、この時一緒に観光創造専攻に中心的教員の一人として参加致しました。
 さて、自己紹介はこのくらいにして、講演会の話に移りましょう。5月の同窓会総会の際に私の研究について講演する機会をいただきましたが、そこで私は15年前に観光研究に着手した時の最初のテーマである「他者との出会い」についてお話をしました。このテーマは、私が2007年に観光創造専攻の授業等で取り上げたもので、それ以来大学院生たちとディスカッションを重ねながら「観光創造の他者論」とへとブラッシュアップしてきました。5月の講演では、第一部・理論編として「人は何故旅をするのか」という観光研究の原的課題、観光創造研究が現代社会の諸問題の解決にどのような貢献ができるのかという発展的課題をめぐりお話をした後、第二部・実践編としてペシャワール会・中村哲氏の活動と湯布院の観光まちづくり及び平和運動について紹介致しました。講演の内容はこの会報に講演のスライドの一部が掲載されているので、それをご覧いただければおおよそのところはお分りになろうかと思います。
 講演後に、参加されていた同窓生の皆さんと30分ほど意見交換を行いましたが、その中である方から提示されたコメントを糸口に、コロナ禍の現状も踏まえながら少し話を膨らませてみたいと思います。
講演の冒頭では、今回のキーワードのひとつである「出会い」ということばをその反意語に照らして学術的に鍛える試みを行いました。そしてそこで、観光創造の他者論にとっては「出会い」概念を「支配」に照らして考察することが重要であると申し上げました。「出会い」と「支配」の対比は、私のオリジナルではなく、今年4月に他界された社会学者、見田宗介さんが真木悠介名で著した『気流の鳴る音』の中で、人間が他者と関係する時に抱く基本的欲求の二つの相について議論する中で提案している対比です。真木(2003)によると、私たちが他者と関係する時に抱く欲求には二つの相、具体的には「他者を支配する欲求」と「他者との出会いへの欲求」があると仮定しています。前者の場合、他者というは「手段もしくは障害であり、他者が固有の意思をもつ主体として存在することは、状況のやむをえぬ真実として承認されるにすぎない」(真木 2003)のです。一方、後者の場合は、他者に関して「他者の自由とその主体性こそが欲求される」と主張しています。日常生活における私たちの他者関係は「支配/従属」という固定的関係が圧倒的に多いのですが、この関係は決してネガティブなものではありません。親子関係、師弟関係等では、関係が固定的であるが故に人は安心して他者と付き合うことができます。ただ私たちは、このような固定的関係を「しがらみ」と感じて、そこから解放されたいという欲求も同時に持っています。これが真木の言うところの「出会いへの欲求」です。この欲求に駆られて私たちは旅に出ます。旅先でいつもと違う環境に身を置き、異質な他者と出会うことで、当たり前だと思っていた世界や自分自身の違った側面に気がつくことがあります。この様な自明性からの解放を「異化」と言うこともありますが、真木はこの異化的な特性をもつ「出会いの欲求」の重要性を力説しています。
 私は講演で、観光の旅は「出会いへの欲求」により駆動されるとまとめた後、現代社会においては問題解決へのアプローチが「支配の欲求」に基づくものが多く、「出会いへの欲求」による問題解決、すなわち人への信頼に基づく問題解決アプローチを再評価することの重要性について述べました。これについて、フロアからひとつコメントがありました。その概略は次のようなものでした。最近の社会状況を眺めてみると問題が生じた時の解決法は圧倒的に「支配の欲求」に基づくものが多く、出会いの重要性は分かるが、私たちは結局「支配の欲求」から逃れられないのではないかというものでした。発言された方の近年の社会情勢の分析は全くそのとおりで、新型コロナウイルス感染症パンデミックはこれにますます拍車をかけています。ただ、であるからこそ「出会いの欲求」による問題解決の数少ない実践例に学ぶことが重要であるというのが私の主張であり、またこの問題解決のアプローチは困難ではあるが不可能ではない、とある意味楽観的な希望をもつことも大切だと思っております。真木の言うように、私たちは人間の性として「支配の欲求」と同時に「出会いへの欲求」をもっており、これが人間にとっての基本的欲求の二つの相である限り、一方が他方を抑圧して消し去ることはありえないからです。
 ここで、この二つの基本的欲求の相の意義をこの講演のもう一つのキーワードである「他者」概念と結びつけなら敷衍してみましょう。見田/真木やその弟子である社会学者の大澤真幸は、「他者」というのは愛と欲望の源泉であると同時に脅威と嫌悪の対象でもあり、本質的に両義的な特性をもっていると論じています(大澤2008、見田 2008)。先ほど申しあげた「支配」と「出会い」の欲求は、実はこの他者の両義性と相関していて、他者を脅威と嫌悪の対象として対峙する時は「支配」の欲求が、愛と欲望の対象として迎え入れる際には「出会いへの欲求」が前景化しているのです。
 さて、すでに3年目に突入した新型コロナ感染症パンデミックのなかで、世界中の人々が移動と交流の制限あるいは自粛を経験してきました。コロナ禍のソーシャルディスタンス(social distancing)とは、ありていにと言うと、他者に近づくな、他者に触れるなということであり、私たちはこの指令のもとで家族など生活を共にする者以外の他者との交流や接触を極力避ける生活を強いられてきました。哲学者の國分功一郎が大澤真幸との対談の中でいみじくも述べているとおり、ソーシャルディスタンスとは「すべての他者があなたにとって脅威である」あるいは「あなたがすべての他者にとって脅威である」と言っているに等しいのです(大澤・國分 2020)。他者が脅威であるという認識あるいは他者の異質性への嫌悪はコロナ禍を契機に目立ち始めましたが、実は異質な他者を回避する傾向は以前から現代社会に潜在していました。同じ趣味嗜好の者のみからなる集団が同調圧力を強めることで仲間意識を高め、それと同時に異質な他者を排斥するという構図は、昨今のヘイトスピーチやヘイトクライムの中に容易に見出すことができます。メディアが取り上げる派手なヘイトパフォーマンスだけでなく、私たちの足もとの暮らしでも、例えば学校や会社やサークル等の活動においても、同質の者たちが集いながら異質の他者を回避・排除しするという傾向が一般的になりつつあります。2年以上にわたるコロナ禍のなかで、このメンタリティが世界規模で共有されつつあることに、私たちは危機感をもつ必要があるでしょう。
 コロナ禍により、私たちの対面での接触は大きく制限されましたが、その一方オンラインでのコミュニケーションや交流は活発化し、そのプラットフォームも急速に整備されつつあります。対面で行ってきたことをオンラインに移し替えると同時に、これまでは難しかった遠方の他者との交流もオンラインであれば容易であることに誰もが気づき、実際にそれを経験した人たちも多いことでしょう。またオンラインに仮想空間を構築し、そこで他者と交流したり共同で創作活動を行うこともさほど難しいことではなくなりつつあります。仮想空間上の交流プラットフォームを指す「メタバース」ということばもメディアを通じて人口に膾炙し、メディア産業やICT企業はここに新たなビジネスチャンスを求めて始めています。現実空間に代わり、ここが異質な他者たちが出会い・集う新たな交流の場になると期待する人たちも少なくありません。
 異質な他者は私たちにとって脅威ではありますが、また同時に、私たちはその異質性こそが私たちに歓びを与えてくれることを今一度思い出すことが大切です。果たして「メタバース」がそのような交流の場になるのかどうか興味のあるところですが、それについてはまた機会を改めて述べたいと思います。*

<参考文献>
大澤真幸, 2008, 『不可能性の時代』岩波新書
大澤真幸・國分功一郎, 2020, 『コロナ時代の哲学』(THINKING O 16号)左右社
真木悠介, 2003, 『気流の鳴る音--交響するコミューン』ちくま学芸文庫
見田宗介, 2008, 『社会学入門』岩波新書

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